2019年5月1日水曜日

プリュタネイオンでの食事を

大きく出たなというようなブログタイトルをつけた。

古代ギリシャのアテナイ市民ソクラテスは有罪の判決を受けたとき、どれほどの量刑がおのれに課されるのがふさわしいかと本人の意見を問われた。彼は「オリンピアンは市民を幸福な気持ちにするが、自分は市民を実際に幸福にしているのだから、オリンピアンのようにプリュタネイオン(アテナイ市の迎賓館)で食事をさせるのがよいのではないか」というような不遜なことを述べたあと、慌てて飛んできた友人たちの忠告に従って「私は貧しいが、友だちが貸してくれるそうだから30ムナの罰金なら払えそうだ」と主張した。
(※Wikipediaの記述を見ると「紀元前5世紀の1ドラクマは、1990年の25ドルに相当するという研究がある」[2019年5月1日閲覧]とあるので、100ドラクマが1ムナであるから、30ムナは1990年の約75,000ドル。2018年はインフレが進んで約145,500ドルということになる。これは2019年5月の為替レートでみると約1620万円といったところか)

そのような人を食った態度が陪審員たちの不興を買い、哲学者は死刑宣告を受け――というようなことを『ソクラテスの弁明(The Apology)』で伝えるプラトンの描写には誇張も多く、しかも脚色もあるらしい。「真実のソクラテス」の姿は彼を直接知る人々の目とともに失われた。

そうはいっても(あるいはそれゆえに)ソクラテスという一個人が、その後の2400年ものあいだ、人類にとって(少なくとも今やヒト社会のメインストリームとなった西洋科学文明にとって)偉大な教師であったことは疑いない。彼以降、数多の才人が世に名を残していはいるものの、彼に比肩すると看做されるものはそういないだろう。


もちろん偉人と自らを重ね合わせようと思ってこんなブログタイトルにしたわけではない。そもそもなにか人類社会に対して貢献したこともなければ、そうなる見込みも薄い。

それどころか幼い頃からどうも社会と折り合いがつけられないような気がしていた。社会はその構成員を効率的に生産するようにできているが、人間にはいろいろばらつきがあるので、型にはめられないものや型にはまっても基準に達しないようなものが出てくる。そういう自覚があったので、摩擦で疲弊するのはいやだなと早々にドロップアウトした。見切りが早かったので苦労というほどの苦労はしてないが、当然、難儀はしている。

ただこの歳になって思うのは、もしかしたら社会のほとんどの人が、本当は「社会が要請する型どおり」に生きるのが辛くて仕方ないと内心思いつつ、脱落はすまじと生真面目に耐え忍んでいるだけなのではないか、ということである。そうであるとすればいったい社会とはなんだろうか。しかもそれだと筆者は「多数者に合わせた社会に不幸にも適応できなかった少数者」ではなく「単に堪え性がないだけの怠け者」ということになってしまうのだが(そんなような気もしてきたぞ)。


世の中には浮浪罪なんてものまであるそうだ。働けるのに働きもせずぶらぶらして周囲に不安感を与えるからとかなんとか。いま筆者もその一歩手前でぶらぶらしているのだが、そのくせ危機感がなく「いよいよ食い詰めたら成年向け同人誌でも描いて一山当てるしかない」みたいな(脳天気な)ことしか考えられないので、我ながら困っている。

住む場所をなくしてうろついていれば捕まるし、一山当てられるかどうかはともかく18禁作品を描いていれば摘発されて裁判となるリスクもあるわけだが、同じように貧しくてもソクラテスと違って友人のない身では、もはやこう言うしかないかもしれない。賢者の勝利の確信に満ちた堂々たる態度ではなく、ごく弱々しい社会への要求として。

プリュタネイオンでの食事を。

プリュタネイオンでの食事を

大きく出たなというようなブログタイトルをつけた。 古代ギリシャのアテナイ市民ソクラテスは有罪の判決を受けたとき、どれほどの量刑がおのれに課されるのがふさわしいかと本人の意見を問われた。彼は「オリンピアンは市民を幸福な気持ちにするが、自分は市民を実際に幸福にしているのだから、オリ...